時短読書ハック Sakatoの書評ブログ

地方在住アラサー男2代目社長兼 筋トレ健康オタクSakatoによる雑記雑食書評ブログ  ※ブログ工事中!

小さな煩悩の醜悪さ

煩悩には3つあります。
①自分のための煩悩
②恋人や家族など愛する人のための煩悩
③世の中すべての人のための煩悩

 

世間で「煩悩を持ってはいけない」と言うのは、「自分のため」だけに100%の煩悩を使ってはいけないということなのです。
 
『今したいことを、今しよう』 中谷彰宏
 
 
 
 
「夢」や「目的」と
 
「煩悩」や「欲望」の違いは何だろうか。
 
夢というと、持つべきもの、というか美しい感じ。
 
煩悩というと、持っちゃダメな、きたないものという感じ。
 
しかし、実は何も違いはしない。
 
中身は全て同じものだ。
 
「何か良いもの」と「何か悪いもの」だと思っているなら、一度しっかりと頭を整理するべきだろう。
 
話の流れの中で、「それ」を肯定しようとしているか否定しようとしているかだけの違いなのである。
 
文脈によって表現が変わっているだけだ。
 
もちろん、夢という美しい表現に酔うのもいい。
 
上座部仏教のように、煩悩の超克という理想郷を目指すのもいい。
 
どちらにせよ、それらは同じ一枚のコインの表と裏であることに気づかなければならない。
 
「それ」にあえて名前をつけるのであれば、「エネルギー」あたりが適当であろうと思う。
 
人の持つエネルギー。
 
モチーフ(モチベーション・動機)でもいいが、ややしっくりこない。
 
モチーフでは音楽の授業のようだし、モチベーションではやる気、という感じでむしろ限定的な印象を受ける。
 
AもBもCもDも、同じ何かだと言いたいわけであるからもっと抽象的な語が似合う。
 
人のエネルギー。これ自体に良いも悪いもない。
 
 
 
 
 
中谷彰宏氏の上記の表現は、女性に語りかけているかのような表現で、「らしさ」があってとても好きだ。
 
「煩悩には3つある」
 
とても素敵。
 
 
 
 
 
ところでこの話、もっと他の表現もできる。
 
 
 
 
 
私なりの表現をしよう。
 
幸福を考えるときにたいせつなのは、その順番だ。
 
自分→親しい人→世の中
 
という順番こそが、絶対。
 
 
自分が不幸なのに、他者に幸福を与えようなどとしてはいけない。
 
自分が不幸な時点で周りの人間も不幸に巻き込んでいることに気づかないといけない。
 
 
親しい人を幸福にできていないのによりよい世の中を語る資格はない。
 
家族をないがしろにしておいて、世のため人のためのボランティア活動に勤しむ資格はない。
 
 
自分だけが幸せではつまらない。が、前者に比べれば結局はそれが一番マシである。
 
そして自分を幸福にすることができた人間にのみ、その次の幸福を目指す資格が与えられる。
 
 
 
私が嫌いでしょうがないのは、滅私奉公的な自分を犠牲にする考え方だ。
 
極論かもしれないが、たとえ自分の子に対してであっても、それは醜悪な行為だと考えている。
 
自分が幸せでもないのに他人の人生に首を突っ込むのはいけない。
 
どこまでいってもそれは自分の不幸に他人を巻き込んでいるだけだ。
 
それは、清貧や滅私奉公を尊ぶ日本人的な価値観から出てくるのだろうが、極限に小さな煩悩といっていいだろう。
 
 
 
そう、煩悩が醜悪なのではなく、「小さな」煩悩が醜悪なのだ。
 
 
 
エネルギーには大小がある。
 
 
 
苫米地英人氏がこのような表現をしていたように記憶している。
 
 
煩悩の有無が問題なのではなく、煩悩のスケールが問題なのである。
 
自分のためだけの煩悩は、スケールが小さい。
 
世界のための煩悩は、スケールが大きい。
 
自分のためだけの小さな煩悩ではなく、もっと大きなスケールの煩悩を持て。

 

 
 
この表現のすぐれたところは、中心が自分自身であることが前提となっているところだ。
 
煩悩(幸福)は自分自身から、同心円で段階的に広がっていく。
 
私の考えとも一致する。
 
そしてここに、自分を差し置いて他者の幸福を願うという「極小の煩悩」は最も醜悪なものだ、と付け足したい。
 
「私のことはいいの」だの
 
「この子さえ幸せになってくれれば」だのといちいちのたまう人間が、
 
優れた人格者であったことなど、私の観察する限り一度もない。
 
 
 
「守るものができて強くなる」
 
のは、同心円の理論の2段階目の話であって
 
そのレベルに達する人は自分の煩悩などとうに満たしている。
 
 
極小煩悩の醜悪人間が似たようなことを言うことがあるが、天と地の差がある。
 
そのような人間に人生を台無しにされてはいけない。