時短読書ハック Sakatoの書評ブログ

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書評『苫米地博士の「知の教室」』 苫米地英人 後編

苫米地博士の「知の教室」: 本当の知性とは難しいことをわかりやすく説明することです!

 

 

憲法第27条に「全て国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」と書いてあるんだぜ。

 

 

なぜ義務まで負うの?(笑)

 

「児童はこれを酷使してはならない」ってあるんだよ。

 

基本は児童も働けってことだよね。ひどくない(笑)?

 

まことに。

 

いつの時代の憲法だ?

 

 

日本人がやれば、精度の高い製品ができてくるってことなんだけど、外国人からすれば、それはやりすぎなわけだ。

なぜならそのためにトレランス(許容範囲)を決めたわけだから。

 

日本の職人の話。

日本ではやたらめったら精度が高いことを褒め称える風潮がある。

ひとつ視点を上げてみよう。

品質を許容範囲内で、最速で最低コストで仕上げてくるのが仕事としては最高である。

必要以上に精度を高めるのは、仕事としては完全に害悪。

それは趣味でやるべき。

「精度の高い職人技が世界に評価されているではないか!?」

そのとおり。

日本のそのトレランス度外視の技を芸術として評価し、そこにお金を払ってくれる海外の資産家が存在する。

海外の、資産家である。

日本にそういった芸術にお金を払う文化はない。

それらの職人技が成立しているのは日本独自の強みでもなんでもない、

海外のパトロンの資産によって成立している。

どこにも美しい話はない。

日本人の魂だなんだとズレた認識をしないほうがいい。

 

日本の職人(達人)の世界は中途半端。

それは技術的な話ではなく経営者としての中途半端さ。

 

「精度を高めたい」という欲求は自然なことだし、悪いものではない。

が、それは趣味でやれという話。

趣味は、自分でトレランスを決めることができる。

好きなだけ精度を高めてこだわればいい。

そのこととそれが仕事になるかどうかはまったく別世界の話。

 

 

言い訳は反論ではない

 

反論というのは

「なぜ遅刻したんだ!?(お前は遅刻をした)」に対して

「遅刻していません」と主張することだ。

 

「電車が止まっていたからです」は

「遅刻しました、なぜなら・・・」という文章である。 

 

言い訳はただの敗北宣言だ。

だから、言い訳する人にかける言葉など当然ないのである。

 

そもそも「なぜ遅刻した?」なんて聞く事自体がおかしい。

 

「遅刻だね」「はい」でルールに基づいたペナルティを課せばいいだけの話だ、と私なんかは思うが。

 

もし「遅刻ではありません」ときたら、初めて議論が始まるかな。

 

 

ジャスティスの意味は正義じゃない。

公平・公正という意味。

 

正義はなく、あるのは権力である。

 

「正義」という言葉には「変わらない絶対正しいこと」というようなニュアンスが含まれる。

それが正義はないという理由だ。

権力は変わっていくし、変えることができる。

 

全てを貫く正義など存在しない、その時その時の権力があるだけである。

 

つまり、正義とは、その時代の権力者にとって都合のいいルールのことを指しているにすぎないことがほとんどなのだ。

 

人が決めるんだよ。法が決めるんじゃない。

 

有罪・無罪ですら結局は判事が決める。つまり人が決める。 

 

その事実が既に、「正義」はなく、あるのは「権力」であることを示している。

 

 

 

 

中庸というのは2つの間のことをいうんじゃなくて、千、万の中でバランスが取れた状態をいう

 

「両極端の真ん中」なんていうサルでもわかるような話ではなくて、

 

2なんて数字じゃなく千・万の全てを理解したうえでのバランス。

 

 

 

偏った情報的存在を生命という

 

情報の偏りを解消しきった完全にフラットな状態が「悟り」という世界観。 

 

偏っているのが生命の定義なら、偏っていないから「生命を超えた」と表現する。

 

水面に現れる波のひとつひとつが生命であり、それは連鎖してゆく。

 

波が消え去ったとき、生命はなく、超えられている。そんなイメージ。