さかとの成長あるのみ!

地方在住アラサー男2代目社長兼 筋トレ健康オタクSakatoによる雑記雑食ブログ

「待たない」コミュニケーション【社会性は不要になります】



前回の続きになります。



www.sakato0927.com


※今回はかなり自由に書き散らかします。


f:id:sakato0927:20190311150156p:plain




では

待たないけれども、コミュニケーションはする

とは一体どういうことか、ですね。



より高次のコミュニケーションとは

非同期コミュニケーション


コミュニケーションは、リアルタイムでやり取りされるものに限りません。


例えば、手紙のやり取りはリアルタイムのやり取りではありませんね

読むタイミングも返すタイミングも任意です。

現代ならメールや LINE のことですね。

待ちが発生しないコミュニケーションです。


簡単なものでいうとこれらのものも、待たないコミュニケーションですね。


若い世代ほどこういった非同期のコミュニケーションを好む傾向にあります。

それは単純に時代を経てコミュニケーションがより合理的なものになってきているということです。


そう言った変化に文句をいう「おじさん」は、ぶっちゃけ「ダサいな」と感じます。

「対面のコミュニケーションにはある大切なものが失われている」

というのは当然のことです。

合理的になるということは、見出した本質以外の何かを捨てるということですので。

「捨てる」というと語感としてはアレですが、「より本質を大切にする」とも言えますので。

こんなものは議論するに値しません。


これらを私は「高次の」コミュニケーションと言っています。


なぜ「高次」というかというと、別にそのほうが偉いからとかではありません。

より縛り付ける条件が少なく、抽象的だからです。

抽象的ということはより自由だということです。



メールや LINE は、対面のコミュニケーションと異なり

場所の縛りも、タイミングの縛りもありません。

より自由度の高いものです。


しかし、まだまだ。

もっと自由度の高いコミュニケーションが存在します。

宛先のないコミュニケーション


メールにも LINE にも、まだ明確な宛先が存在します。

もっと宛先の広い、あるいは存在しないコミュニケーションは、さらに高次のものになります。


そこまで来るとそれは「作品」と呼ばれます。


執筆された本、描かれた絵画、撮影された映画などは、作品と呼ばれます。


これらは宛先を非常に広くアプローチすることができるコミュニケーションです。

未来の誰か

にまで、その射程距離は十分に広がっています。


さらに言えば、

学問が追求する「真理」というものは、もはや宛先すら存在していません。

きわめて高次の、コミュニケーションだと見ることができます。


何が言いたいかと言いますと、

私は、作品を鑑賞することや学問を学ぶことは濃密なコミュニケーションであると現に実感している

ということです。

心を救われた作品


あなたには「心を救われた作品」はありますか?


私の場合は例えば

ショーペンハウエル『自殺について』

自殺について 他四篇 (岩波文庫)

自殺について 他四篇 (岩波文庫)



南 直哉『老師と少年』

老師と少年 (新潮文庫)

老師と少年 (新潮文庫)


などがあります。


私は、実際の誰かから「心を救われる」というレベルの影響を受けたことはありません。

いつだって私を救ってくれたのは本でした


『自殺について』

は、その細かな内容はともかくとして

こんなにネチネチと嫌なことばかりを考え続けている人間が自分以外にも存在するんだ!

しかも200年前のドイツに!!

という衝撃でした。

妙に心が救われたのを覚えています。

まだ若く無知だったものですから、こんなやつは世界で自分ただ一人だと思っていたのですね。



『老師と少年』

実存病とでもいいますか。

「なぜ生きる」と問わずにはいられない人種の話ですが。

この著者は、はじめて私に


あ、さすがにこの人よりはおれマシだわ


と思わせた著者です。


めちゃくちゃほっとしたのを覚えています


何にか、といえば

私より重症なこの人が、ゆうても自殺もしてなければ刑務所にもいないことに、でしょうか。


ともかく、作品という自由度の高い方法だからこそ、

これだけの濃密なレベルのコミュニケーションが可能なのです。


そして、私は

学問というものはさらにスケールが大きく抽象的な作品だ

と思っています。


「誰かがかつて考えたこと」と「誰かがかつて感じたこと」

の膨大な蓄積です。


「ああなるほど、このように考えたのだな」

「こんな風に感じたのだな」

「こんなことを試みたんだな」


という理解を深めていくことは、まさにこの上ない喜びです。


ぶっちゃけ私は勉強中に感動して涙が出たことが何度もあります。

特に数学・物理系に対しては涙腺が非常に弱いですね(笑)

表現が美しすぎたり、理解できたのが嬉しすぎたり、あまりにも不思議すぎたりなど、ニュアンスは様々ですが・・・。


余談ですが

逆に、不思議と24時間テレビのたぐいは感動どころかストレスになります(小学生の頃からすでに嫌いでした)。

理由を深く考えたこともありません。


ともかく、

こういった体験からすれば、目の前での日常的な些末なコミュニケーションは

ぶっちゃけ、私にとってはみたいなものです。

どうでもよすぎて、待ってられないんですね。


なにせこちらのコミュニケーションは時空を超えていますから。


過去の人も、未来の人も対象であり、

数学なんかになれば言語の壁すらなくわかりあえるのです。

アルキメデスの定理に感動したとき、あなたは間違いなく時空を越えてアルキメデスと感動を共有しています。

理解することはこの世にたったひとつの限界がない遊び


そして、大切なことはこの喜びに限界はないということです。


おいしいものを食べる喜びも(生理的快楽)、

大成功して誰もがうらやむ勝ち組になった喜びも(社会的快楽)、

かならず限界があります。


限界があるということは、追求するに値しないということです。

そう思いませんか?

必要が満たせれば OK なのです。

(と言いつつだんだんその「必要」が大きくなってきて困っていますが・・・)

社会性は不要になる


さて「待てない」という話からずいぶん飛躍して書き散らかしてきました。

「待てないということは社会性が低いということだ」と言ってきましたが、

さてそろそろ、実は一番言いたかったことを言おうと思います。


ぶっちゃけ、人間にとって社会性というものは、そのうち捨てられていくものだと感じています。


かつて、人類の生存にとって重要な役割を演じたから、社会性というものがあるのです。

というか、人類は「社会性」という武器を獲得したがゆえに生き残ったわけです。


しかし文明の発達により、もう社会性を失っても、人類は生きていけるのです。


役目を終えてしまいました。

役目を終えた今となっては、こう定義できるのです。


社会性は人類が文明を発達させるために存在した。


社会性そのものに価値などないのです


世間や周りの世界を見回してみますと、

とにかく「社会性」というものは価値のあるものなのだ!

という主張で誰もが必死です。


絆だとか愛だとか、いろいろ言っていますが・・・。


しかし、社会性がもはや役目を終えようとしている現代ではその「社会性」がどんどん邪魔なものになってきているように思えます


社会性を捨てることで自由になれるといいますか。

道が開ける状況が多くなってきた。


自分の周りを見渡していても思うのですが、

社会性が高い人は合理性は低いです。

社会は全然合理的ではありませんから・・・

そこに適応できている人が合理的でないのは当然だと思います。


説明するまでもないことですが、

現代の世界を率いているのは社会性よりも合理性に突出したいわゆる理系の人たちです。


ビルゲイツ、マークザッカーバーグ、ジェフベゾス・・・鬼理系軍団ですね。


そこに圧倒的な富が集中することがその証明です。

もう、社会性は役目を終えているのです。


まだまだ、社会性は非合理なものというよりは「美しいもの」として扱われ続けるでしょうが、

少なくとも今の社会が「合理性」に向かっていることは確かです。

おわりに


ずいぶん大風呂敷を広げて書き散らかしましたが。

偽らざる現在の私の「見立て」です。


とにかく、未来が楽しみです。


未来がどうなのかを見届けるためにこそ、長生きしたい。


とりあえず今日も今から筋トレします。